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長野地方裁判所 平成2年(タ)2号 判決

主文

一  原告と甲野春子(本籍は、原告肩書本籍に同じ。)とを離婚する。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

主文同旨

二  請求の趣旨に対する答弁

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求の原因

1  原告と甲野春子(以下「春子」という。)は、昭和四五年秋東京で知り合い、翌四六年四月新宿区西新宿のアパートで同棲を開始、同年八月一〇日婚姻届をした。

春子は平成元年一二月七日確定の審判により禁治産宣告を受け、原告が後見人に、被告が後見監督人に就任した。

2  原告が春子と知り合った頃、原告は会社員、春子はバーのホステスをしていたが、春子は原告と同棲後主婦となった。

原告は、昭和四七年勤務先の会社を退社し、アルバイト等をした後、昭和四九年からは東京都新宿区にある設備工事会社に勤務して来た。

3  春子は、昭和五六年暮頃から時々就寝中に失禁するようになり、原告は、当初、寒さのためかと考えていたが、昭和五七年秋頃から春子の様子がおかしくなってきた。

すなわち、背骨が右側に湾曲するとともに、話し方が遅くなり、買い物に行っても自分の所持金の額を忘れてそれよりも多額の買い物をするようなことが発生した。また、昭和五八年春頃、春子は原告の出勤中に一人で外出し自宅(公団アパート)の棟が分からなくなって帰れなくなったこともあったため、原告はそれ以後春子に同女の住所と名前を書いた紙を持たせていたが、同年三月八日には溝に落ちて救急車で病院に運ばれたりもした。

原告は、当初、春子を整形外科病院等へ連れて行ったが、どこの病院でも病名がはっきりせず、昭和五八年四月から東京都立養育院付属病院(板橋区所在)に二ヶ月余り入院して検査したところ、春子はアルツハイマー病とパーキンソン病に罹患していることが判明した。

4  春子は昭和五八年七月五日右付属病院を退院し、再び自宅で生活するようになったが、部屋の中を若干歩行することと冷蔵庫から物を出し入れすることができる程度となってしまっていたため、炊事、洗濯、掃除はすべて原告が行うこととなり、また春子は一人で入浴することもできなかったため、原告が春子を入浴させたし、原告は、春子のための昼食(サンドウィッチ等)を作って出勤した。

また、原告は、同年一〇月一九日春子のため右公団アパートにエアコンを設置(そのスイッチは春子の手の届かない所に取り付けた。)し、これを自動制禦にして出勤した。

さらに、同月三〇日原告の外出中、春子がガス風呂を焚きっぱなしにしたことがあったため、原告はその後公団アパートの二重ドアの内側のドアの外側に鍵を設置し、原告は、原告が外出する時には必ずその外側から鍵をかけるとともに、春子が一人で火を使わないようガス栓も外から閉めて外出するようにした。

5  昭和五八年一二月一一日、春子が室内で歩行中躓いて転倒し嘔吐を繰り返したため、原告は春子を救急車で病院に連れて行ったが、春子は既に通常の会話もできない状態であったため、どこの病院でも受け入れてもられず、結局、前記都立養育院付属病院に再入院した。

右付属病院で調べたところ、春子は足を骨折していたため、その治療を兼ねて昭和五九年三月五日まで右付属病院で入院加療をしたが、入院当初は若干歩行できたのが、その後徐々に歩けなくなり、退院の頃には便所にも行けなくなってしまった。

6  春子は昭和五九年三月五日右付属病院を退院し、再び自宅で生活を始めたが、寝たきりの状態になってしまっていた。但し、ベッドの上に上半身だけ起きることはできたため、原告は昼食を作り、これをベッドの脇に置いて出勤した。

原告は、家事のほか、春子のおむつの取り替え、同女の入浴等もすべて行った。

昭和五九年中頃から、春子は、文字を読むこともできなくなり、喜怒哀楽もほとんどなくなってしまった。

7  昭和五九年七月一日原告の父が死亡したため、原告は団地内の近所の主婦に春子の看護を頼んで帰省したが、原告の父の四十九日法要のときは、春子を車に乗せて帰省した。しかし、春子は車の中でも「家へ帰る。」と言うばかりであった。この頃の春子は、原告の問いに対し、同女の生年月日と出身地(「東京」、「中野」)並びに原告の名前だけを答えられる状態であった。

8  原告の父が死亡したこと、原告が長男で実家に母だけとなってしまったこと、原告一人では春子の看護ができなくなったことなどから、原告は昭和六〇年四月勤務先を退職し、春子を伴って実家へ帰り、更埴市内の設備会社に配管工として勤めるに至った。

しかし、その頃から、春子はベッドの上に起き上がることもスプーンを持つことさえもできなくなったため、原告が春子の口元まで食物を運んで食べさせ、昼間は原告の母が春子に食事をとらせたり、おむつ替えをした。しかし、その頃以降春子にはほとんど感情もなくなって、原告と会話することもできなくなり、わずかに原告の名前を覚えている程度であった。

9  しかし、その後も春子の症状は悪くなる一方であり、また年老いた原告の母は農作業もしなければならなかったため、近所の民生委員らが原告らを見かねて社会福祉協議会等に働きかけをしてくれた結果、昭和六一年一〇月(春子は六〇才未満であったが。)特例として、春子の特別養護老人ホーム須坂荘への入所が認められた。

10  春子は入所当初から既にベッドの上に起き上がることもできず、スプーンを動かすこともできない状態であった。原告は、春子の入所以来約三年余りの間、一週間若しくは二週間に一度の割合で春子を見舞いその都度食事をとらせたりしている。しかし、原告にとって最も悲しいことは、既に春子は原告の名前すら分らない状態になっており、夫婦としての心の交流などまったく望むべくもなくなってしまったことである。

11  原告は、昭和五八年六月、春子がアルツハイマー病と診断され、医師から将来病状が改善することはあり得ないこと、むしろ必ず悪化していくであろうことを告げられても、希望を捨てず、離婚はしないと考えていた。しかし、春子がアルツハイマー病と診断された後今日まで約六年余りの間の療養看護を経て、春子に回復の見込みがないことを知るに至った現在、原告は、まったく反応のない春子との結婚生活と自分の将来に絶望せざるを得ない状況にあり、今般周囲の者と相談の結果、離婚を決意するに至った。なお、現在原告が春子のために負担しているのは月額九〇〇〇円の所得割による費用だけであるが、原告は春子との離婚後もできるだけ面会に行ったり、右経済的負担も継続するつもりでいる。

12  以上のとおり、春子の精神状態は、夫婦の同居、協力、扶助義務を果たすことがまったくできない程度に痴呆化しており、それが進行することはあっても改善することはないから、原告は、民法七七〇条一項四、五号によって、春子との離婚請求を求める。

二  請求原因に対する認否及び被告の主張

1  請求原因1について

原告と春子が昭和四六年六月一〇日婚姻届をしたこと、春子について平成元年一二月七日禁治産宣告が確定したこと、原告が後見人に、被告が後見監督人に就任したことは認める。なお、被告を後見監督人に選任する審判がなされたのは平成元年一二月二七日である。

その余は不知。

2  請求原因2ないし11について

春子がアルツハイマー病と診断されていること及び特別養護老人ホーム須坂荘に入所していることは認める。

その余は不知。

3  被告の主張

アルツハイマー病は、現在の医学界では、いわゆる老人性痴呆と同義であるとされている。そして高齢化社会の到来を言われる今日、老人性痴呆は決して特異な症例ではなく、誰にでも発症の可能性があるという意味で一般的な症例である。したがって、被告は、アルツハイマー病が民法七七〇条一項四号にいう「精神病」に該当するか否かについては疑問を持っている。

しかし、被告は、右の「精神病」に該当しない等の理由で、原告の請求を直ちに失当であると主張するものではないが、原告の請求が認容されるについては春子に対する扶養(私的扶養にとどまらず、公的扶養をも含んだ総合的な扶養。)が確保されることの保障が必要であろうと思科する。

第三  証拠〈省略〉

理由

一  〈証拠〉及び弁論の全趣旨によれば、次の各事実を認めることができ、この認定に反する証拠はない。

1  原告(昭和二二年一一月三〇日生)と春子(昭和六年五月一〇日生)は、昭和四五年暮頃知り合い、昭和四六年二月頃から東京都新宿区西新宿所在の春子が借りていたアパートで同棲し始め、同年八月一〇日婚姻届をした夫婦であり、二人の間に子供はいない。

2  春子は、平成元年一一月二〇日、アルツハイマー病による痴呆性精神障害に罹患し、心神喪失の常況にあることを理由に禁治産宣告を受け、原告は春子の後見人となった。

被告は、長野県弁護士会所属の弁護士で、平成元年一二月二七日、春子の後見監督人に選任された。

3  原告と春子が知り合った頃、原告は会社員、春子はバーのホステスをしていた。

春子は、婚姻後間もなくホステスを辞めたが、その後不動産業者や飲食店にパート勤めをしたことはあった。

原告は、昭和四六年春勤務先を退社し、アルバイト等をした後、昭和五〇年東京都新宿区にある設備工事会社に就職した。

4  春子は、小学校六年生の頃、右膝関節結核に罹り、婚姻当時も右足の関節が十分曲がらず、足を引き摺っていて正座することができなかったが、日常生活に不自由を感じることはなく、後記(6以後)のような症状が現われるまでは、少くとも婚姻後特に入院を要するような病気をしたことはなかった。

もっとも、原告は、春子から、「卵巣に石がある、そのため子供はできない。」と言われたことがあった。

5  原告と春子は、昭和五二年、前記新宿のアパートから中野に転居し、さらに、昭和五四年九月、江戸川区の公団住宅に移り住んだ。

6  春子は、昭和五六年暮頃から就寝中に時々失禁するようになり、昭和五七年になると背骨が次第に右側に湾曲し始め、話し方のテンポが遅くなり、買い物に行っても不必要な物を買ったり、自分の所持金の額より多額の買い物をするようになった。

また、昭和五八年二、三月頃春子は一人で外出した際自宅(前記公団住宅)の棟が分らなくなって帰れなくなったこともあった。そのため、原告は、それ以後春子に自宅の電話番号等を書いた紙を持たせるようにした。

なお、昭和五七年頃から、原告と春子の間には夫婦関係がなくなった。

7  前記のように昭和五七年に春子の背骨が右側に湾曲し始め、昭和五八年にはその様子が著しくなり、近所の医者には異常がないと言われたが、そのうち春子の話の内容がおかしくなったり妄想も起きたりしてきたので、板橋区所在の東京都立養育院付属病院に昭和五八年四月二七日から同年七月五日まで入院して検査したところ、春子はアルツハイマー病とパーキンソン病に罹患していると診断された。

8  春子は、昭和五八年七月五日、右病院を退院し、自宅療養することになった。失禁は相変らず続いていた。

春子にできることは、部屋の中を若干歩行すること、冷蔵庫から物を出し入れすること、ご飯を炊くことぐらいであり、原告が炊事、洗濯、掃除を行った。また、原告は、春子が入浴できるように風呂を改造し、出勤する日は春子の昼食(サンドウィッチ等)を作って出勤した。

さらに、春子はガスストーブの温度調節をすることができなくなっていたので、原告は、昭和五八年一〇月、春子のため自宅にエアコンを設置し、自動で冷暖房をコントロールできるようにした。

昭和五八年秋頃、原告の外出中、春子がガス風呂を焚きっぱなしにしたことがあったため、原告は自宅の玄関の内側のドアにその外側から鍵をかけられるようにし、原告が外出する際には外側から鍵をかけるとともに、春子が一人で火を使わないように室外にあるガス栓を閉めることにした。

9  春子は、昭和五八年一二月、自宅の室内で歩行中躓いて転倒し嘔吐を繰り返した。原告は春子を病院へつれて行ったが、春子はその頃には通常の会話ができない状態になっていて自分の症状を医者に話すことができなかったこともあって、一般の病院では春子を受け入れてもらえず、春子は、結局、同月一六日、再び前記の都立養育院付属病院に入院した。検査の結果、春子は足を骨折していたので治療のため昭和五九年三月五日まで入院したが、入院当初は若干歩行できたのがその後徐々に歩けなくなり、退院する頃には殆んど歩くことができなくなってしまい、便所に行くこともできないのでおむつをあてるようになった。

春子は退院して自宅に戻ったが、ベッドの上で上半身を起こすことができるほかは寝たきりの状態であったため、原告は春子の昼食を作りベッドの脇に置いて出勤した。原告は家事全般のほか、春子のおむつの取り替え、入浴などの世話をした。

春子は、昭和五九年頃には喜怒哀楽の表情が希薄になっていたし、原告の問いかけに対しても原告の名前とか春子自身の生年月日程度のことしか答えられない状態になってしまった。

10  原告の父が昭和五九年七月一日死亡したので、原告は葬儀のため更埴市の実家(原告肩書住所地)に帰省したが、そのときは、食事、おむつ替えなどの春子の世話、看護を原告方と同じ公団住宅団地内の主婦に依頼した。

原告の父の四九日法要のときは、原告は春子を車に乗せて帰省したが、春子は車内で寝たきりの状態であった。

11  原告の父が死亡し実家には原告の母が一人になったこと、原告が長男であること、原告一人では春子の看護が十分にはできなくなったことなどから、原告は昭和六〇年四月勤務先を退職し、春子を伴って実家に帰り、更埴市内の設備工事会社に配管工として勤務するに至った。春子の食事、おむつ替え、入浴などの世話は原告と原告の母が行ったが、原告は勤務していたし、原告の母は農作業をしなければならなかったので、民生委員が原告らの様子を見かねて尽力してくれた結果、昭和六一年一〇月三〇日春子は須坂市所在の特別養護老人ホーム須坂荘に入所することができた。右須坂荘の入所資格は原則として六五歳以上であるところ、春子は例外的に入所を認められたものである。

また、春子は、昭和六一年一〇月頃までに弛緩性麻痺による体幹の機能障害により一級の身体障害者と認定され、現在に至っている。

12  春子は、須坂荘入所当初から、既に自力ではベッドの上に起き上ることができず、スプーンを握ることはできても口に運ぶことができなかったし、昭和六二年秋頃には原告が春子の知り合いということはわかっても夫であることはわからなくなってしまった。現在、その発する言葉は不明瞭で聴取し難く、日常会話は極めて困難である。もっとも視力及び聴力には著しい障害はない。

春子は、前記2の禁治産宣告申立事件において、医師の鑑定を受けたが、その結果は、アルツハイマー病に罹患しており、痴呆の程度は重度で、回復の見込はないというものであった(なお、右医師が右鑑定のため春子を診察したのは平成元年一〇月一二日である。)。

13  原告は、春子が須坂荘に入所した後、一週間ないしは二週間に一度の割合で春子を見舞い、食事をとらせたり、爪を切るなどの世話をしている。

原告は、春子の須坂荘入所後、親族や知人の勧めもあって再婚を考えるようになり、本訴によって春子との離婚を求めるに至ったが、離婚後も春子への若干の経済的援助及び面会などすることを考えている。

14  春子の両親は既に(母は昭和四六年に、父はそれ以前に。)死亡しており、春子の親族としては異父兄が一人いる(同人には二人の子供がいる。)が、原告及び春子と同人とは少くとも原告らの婚姻後親密な交際をしたことはなく、春子の発病後も原告が同人に協力を求めたことはなかったし、原告が同人に春子が入院した事情を説明したときにも同人は原告らに対して協力的ではなく、現在、原告らと同人とは年賀状をやり取りする程度の付き合いで、原告らと同人の子らとは全く交渉がない。

15  須坂荘は、長野県内の一八の市町村が設置したところの広域行政事務組合が運営している特別養護老人ホームで、二四時間完全介護施設である。運営費の大部分は公費で賄われ(民間からの寄付も若干ある。)、入所者の扶養義務者は前年度の所得税額に応じて費用を負担することになっており、春子の扶養義務者である原告の負担額は一か月当り九〇〇〇円である。原告と春子とが離婚した場合には春子の扶養義務者として費用を負担する者はいなくなり、全額公費負担となる。

二  右一の1ないし12の各事実によれば、原告春子間の婚姻関係は、春子がアルツハイマー病に(又は同時にパーキンソン病にも。)罹患し、長期間に亘り夫婦間の協力義務を全く果せないでいることなどによって破綻していることが明らかであり、右一の13ないし15の各事実をも併せて考慮すると、原告の民法七七〇条一項五号に基づく離婚請求はこれを認容するのが相当である(なお、春子の罹患している病気の性質及び前記のとおり春子に対する精神鑑定が禁治産宣告申立事件のためになされたものであることなどの理由により、本件の場合が民法七七〇条一項四号に該当するか否かについては疑問が残るので、同号による離婚請求は認容し難い。)。

三  よって、原告の請求は理由があるから認容し、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 菊地健治)

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